キリムの店*キリムアートアトリエ
【Kilim Art Atelier】 キリムと絨毯販売
こだわりのキリムで作ったバッグや
クッションカバーも取り扱っています。
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オールドキリムとは? キリムとは?
(「トルコの染織・キリム」展図録より)
太陽光による退色について
イランキリムのすすめ イランキリムへのこだわり トルクメニスタン産の絨毯について
シャルキョイについて シャルキョイについて
(近況報告をかねて)


オールドキリムとは?

もともとキリムや絨毯などは、遊牧民が自分たちで飼っている羊の毛を利用して織ったものなので、現在の商用ベースに乗った工場生産キリムとは、全く基本的な考え方から違っています。
当然、その差は製品にも表れてきます。
もともとは、羊の毛を刈り、織物に使える毛を選別し、繊維状にほぐした後に手で紡いで、洗いに掛け、天日干しします。
さらに、それぞれの色に染めていくのですが、かつては、現在のように原料を細かく裁断するといった知恵もなく、色素を定着させるための触媒に自然の物を使っていたため、キリム一枚にトラック一台分相当の原料が必要だったと言われています。
このような全て天然染料を使用する伝統は、100年ほど前に西洋からの化学染料の流入と共に次第に消えていってしまいました。
当時としては、簡単に染色できる最新の化学染料は、染色の重労働から解放される為、タダ同然で手に入る天然染料よりも貴重だったのかもしれません。
古いキリムに見られる織りや編み込み方法など、手間暇のかかる細工ほど珍重された昔とは違い、今ではその多くの技法が伝承されることなくすたれてしまいました。
現代のキリム・絨毯は、他の工業製品のように、早く、生産コストを抑えて(安く)、そして綺麗に見せなければなりません。
オーストラリア・ニュージーランド産のウールを輸入して、化学染料をいろいろと組み合わせて染色したり、最悪の場合、素材にナイロン糸を混入させて織っています。
外国産のウールは機械で糸を練って紡ぐため、繊維の強度が弱く、また酸を使って脱色しますので、キリムになってもヨゴレを吸着しやすく、経年と共にボロボロになってしまうものもあります。
トルコ産の上質なウールを使用と称しながらも、2~3割程度の外国産ウールをミックスすることも珍しくなく、見た目には誰も分かりません。
もっとも、ニューキリムはコスト面でそれなりの成果を収め、お手軽なキリムとして広く普及することとなりました。
そのことが、皮肉にもオールドキリムのコレクターのすそ野をを拡げることに繋がり、結果として、オールド/アンティークキリムの市場価値を大きく引き上げる要因となっています。
現在では、昔の製法を復活させて、手紡ぎウールに天然染料で作成しているものもありますが、とても高価な割には、あくまでコピーであり、オリジナリティや芸術性は見られません。
オールドキリムの方が、ニューキリムより安価なことも珍しくなく、この点では、オールドキリムの方がはるかに魅力的です。
もちろん、高価なアンティークキリムとして残っているものを除けば、オールドキリムの品質もさまざまです。
安いだけが魅力の非常に粗雑なもの、古く見せかけるために薬品で洗ったものなどがあります。
まずは、クッションなどのお求めやすい商品でオールドの味わいを感じていただき、それから高品質のオールドキリムを体感してみてください。
きっと嬉しい発見があると思います。

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キリムとは?

染織の歴史において平織は、毛羽のあるパイル絨毯よりもはるかに早い時代に発達したと考えられる。
中東ではキリム、スマック、ジジムのような平織が知られているが、なかでも綴織の敷物はトルコやイランで「キリム」、コーカサスや中央アジアでは「パラス」の名称で広く親しまれているもので、欧米ではタピスリ、タペストリーと呼ばれているのが、これに当たる。
中東で最も親しまれている製織技法であるにもかかわらず、キリムは寸法が小さいうえに柄も色も地味で、パイル絨毯のような豪華さに欠けているので、これまでの評価は非常に低かった。
キリムは、本来、遊牧民をはじめとして、山間僻地の農民、牧畜民の生活から生まれたものである。
とりわけアナトリアのキリムの多くは、こうした地方の人々の需要に応じて地方の織手によって織られたもので、都会、とくに宮廷工房で専門の工人によって織られる絹製に金銀糸をまじえて織った豪華なキリムとは別のカテゴリーに入る。
アナトリアのキリムは、本来、庶民の実用品であるがために、高級なパイル絨毯のように珍重されて後世に伝えられる機会もなく、今日まで残っている古い資料はきわめて少ない。
したがって、パトロンである支配者の好みに左右されたり、あるいは都会の流行に影響されることがなかったので、比較的古い伝統がそのまま維持されてきた。
素朴ながら大胆な色使いやデザインを織り出した素晴らしいキリムは、高い教育をうけたこともない天衣無縫な女性たちの家事や育児の合間の手仕事から生まれたものである。
専門の業者に指示されて苦労することもなく、思うがままにデザインして織ったので、アナトリアのキリムには、こうした人々の自然な思いや願いが込められているのである。

出典: 「トルコの染織・キリム」展図録 1996年 
解説: 杉村 棟 (当時、国立民族学博物館副館長)

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太陽光による退色について(画像にカーソルを載せれば、説明が出ます。)

オールドのキリムの手入れに欠かせないのが業者用語で“ギュネシ(トルコ語で太陽)”という言葉で呼ばれる太陽光による退色です。
この件については、既に他でも説明してありますが、より正しいご理解を頂くためここに詳しく説明します。
市場に出回るオールドキリムの大半は、短期間使われただけのキリムというのがほとんど、当然、化学染料特有のアクの強いをしています。
極希に、大事に使って自然に色落ちしたオールドのキリムもありますが、それらも裏面は依然として強い色合いですし、多少の色染みが必ず発生している上、自然な退色では日の当たり方にムラがあるので、色の濃度を統一させるためにも、必ず太陽に当てて調整しなければなりません。
表と裏が同じ色合いに退色する事は自然には起こり得ず、過去に退色させた物と考えるのが定石。
そのような品物でしょうか、時折、このままで提供可能、ギュネシに送る必要が無いと思えるキリムも見付かります。
正直な話、ギュネシに送る費用が勿体ないので、「このままの状態で良いから少しでも安くはならないか?」と卸屋に尋ねた事があります。
その際、彼の答えは、「ギュネシの費用は支払わなくていい。でも、ギュネシには送る。(サービス)」というもの。
肉眼で見ていくら万全と思っても、大きなキリムの隅々まで完璧に見渡せる訳ではありません。
特に白い部分、肉眼では分からないような些細な染みの類もギュネシに送る事で軽減できるのです。
また、キリムが柔らかくなるという副次的効果もあります。
長年のビジネス、それも観光客や一般大衆を騙すような仕事ではなく、世界中の一流の業者を相手に取引してきたプロの心構え、お客様に対する礼儀としてギュネシに送る事を学びました。
一方、長期間使われたキリムはと言えば、染みや損傷が少なからず存在します。
使用者もまさか将来売りに出すとは予想していませんから、遠慮無しに使い込まれ、アンティークと比べて安価なそれらは、大がかりな修理を施したのでは採算が合わないので、加工品に回されるか、それも無理なくらいのダメージがある物はトルコで一番少額な紙幣5リラと交換され、微細な小物用又は修理糸として最後の時を迎えます。
つまり、普段見かけるオールドのキリムは、短期間使用されたものであり、過去のいずれかの時点で退色させたものだという事。
時には、退色させず、洗浄も不十分なままに売っている店があります。
このようなケースでは、ギュネシに送る僅かばかりの経費の出費も惜しみ、クリーニングさえなおざりにされている訳です。
どうしてきちんとした修理等のケアがされていると期待できるでしょうか?
大抵、お客様の手元に届いてから問題が発生する事になるので、そのような業者とは危険を承知の上でお取引下さい。

イスタンブルからオールドのキリムを集め、アンタルヤに到着したトラック夏場に猛暑になるアンタルヤでは、早朝、僅かに地面が湿り気を帯びるため、キリムは適度に水分を吸い込み、日が昇るにつれ、徐々に蒸発していきます。
こうしてキリムは、毎日、膨張と収縮を繰り返し、副次的効果としてまるで使い込んだキリムのようにソフトになり、手紡ぎ糸は艶が出てきます。
一部で、キリム・絨毯を日陰や山林に置くフォレスト・ギュネシという退色方法もあります。
これは、急激に退色させるのではなく、少しずつ、キリムの色合いを見ながら調整していく方法です。
とても手間が掛かるので大切なキリムだけ、例えばほとんど退色の必要がない古めのキリムに絞って行うには有効です。
ただし、一般的なオールドでは退色の進行が遅い上に、色染み等が抜けにくく、キリムが柔らかくこなれないので、今ではほとんど行う事は無く、田舎のキリム・絨毯屋が手持ちのキリムに行う程度です。
アナトリアでは、化学染料が普及した頃から毒々しい強いケミカル色のキリムが普通に使用されてきました。
元々、華美な色合いが好まれる素地がある上、使っている内に少しずつ色合いも落ち着いてくる訳ですから、何ら不具合は無く、それが当たり前の常識でもあります。
しかし、他国では違います。
オールド=退色というイメージが消費者に定着しているので、色濃いままではいくら古いキリムと言っても一般の大衆は信用してくれません。
何せ、オールドのキリムなのに使用感が無いため、例え年号が織り込まれていてもこの強い色合いのままではセールスに支障を来すため、当然のようにギュネシに送られます。
唯一、ダケスタン地方の業者さんのみが、このような強い色合いのままのキリムを買い求めます。
この地方のオールドキリムは、非常にけばけばしい色をしていますから、それに趣向が合っている訳です。

未使用のカルスキリム 年号「1965」入りさて、私が他店と違うのはギュネシに送る前、田舎から出てきたばかりの状態でキリムを買い付けている事です。
そうする事で、キリムや絨毯の元々の状態を把握することができます。
この意義はとても大きく、退色する事で分からなくなる些細な問題や下手な修理でごまかされてしまう所さえも的確に把握できるのです。
また、キリムには何重ものボーダーがあります。
もし、破損していれば、上下のボーダーは何の躊躇もなく切り落とされます。
前もって見ていれば、それがオリジナルのものがどうかも分かり、大事な物ならそのまま保存する事も可能です。
そうして、元々良質なキリムが多い中から特に良好な状態の物だけを選び出し、ギュネシに送る事ができるので、状態が良いだけでなく粒ぞろいの良品を集められます。
また、ギュネシの方法も他とは違います。
私のキリムだけの為の日干しの畑が確保され、盗難の恐れがなく日当たりの良い場所に集められます。
一般のギュネシでは片面を集中的に退色させてから、反対面の退色を行います。
それが最も効率的な方法です。
しかし、その方法では、一様に強い退色にさらされます。
キリムは一枚ずつ色の濃さや退色の度合いもマチマチですから、本当はデリケートな管理が必要です。
そこで私は、退色されたキリムをいつ引き揚げても良い様に、毎日ひっくり返して両面を同じ色合いに保つ特別仕上げを依頼しています。
私の好み、そして、退色が必要な度合いを再三伝えてある卸屋は、夏場にニ・三週置きにアンタルヤを訪れ、適度な頃合いで引き揚げてくれます。
この行程は一種の企業秘密でもありますが、多分、コストが掛かりすぎるので誰も真似する者はいないでしょう。
そうしてギュネシを終えたキリムは、上手く行けば最高の仕上がりになりますが、何割かは満足できる仕上がりではありません。
何故なら、ギュネシ期間が短い事から、色染みが抜けきらなかったり、思い通りの色合いに仕上がっていない事があるからです。
この為、毎年出荷前のキリムを現地に渡って仕上げを確認、問題のあるキリムは再度のギュネシに送る等、手間の掛けようは半端ではありません。
しかし、今のように全ての費用が高騰すると、情勢も変わってきます。
一枚のキリムを洗いから退色まで行うとなると、大きさにより金額は異なりますが、一枚当たり大体25~30ドルです。
それが、1000枚ともなればキリム屋は、ギュネシの為だけにとても高額なお金を支払う事になります。
これは前述の通り、全てのオールドキリムに必要ですが、買い付けに手一杯でそのような大金を用意できない所も多々あります。
アンタルヤで一番大きなギュネシ・ファクトリーのHさんは、大勢の人を雇い、イスタンブル-アンタルヤ間を大型トラックでピストン輸送するガソリン代金等を全て立て替え、いざ納品と同時に集金という段階で代金を支払わない者があるので困っています。
それらは口を揃えて、キリムを渡してくれたらその販売代金で支払うと言いますが、踏み倒す事も時たまあって、ギュネシ・ファクトリーの経営を圧迫しています。

色染みが発生した為、薬品に漬けられたピロット・シャルキョイそこで最近、早く、安価に脱色できる方法として、見直されている?!のが、薬品による脱色です。
何せ、キリムのほとんどは観光客相手に売る物です。
例え、数ヶ月後にどんな問題が起きたとしても、二度とは戻ってこない相手ですから、知った事ではありません。
その方法はいくつかあり、薬品に浸す云わば薬品浸けのものから、洗浄の際、少し薬品を加えて色染み等を取り除く物まで様々。
よく考えると、自宅で洗えば色流れが発生するのに、専門業者が洗うと色流れしないというのはおかしい話です。
確かに使用する洗剤、水の温度、洗い方や脱水方法でかなり違いますが、色々な薬品を少しずつ混ぜ合わせた特殊な洗剤を使用しない限り、多少の色流れは発生します。
見た目には悪くても多少の色流れが発生するのがナチュラルな洗浄を行っている証拠、薬品浸けにしたものは、色合いが平坦になり、のっぺりとした表情に変わります。
好まざる方法ですが、結構な分量のキリムがこの方法で洗浄されています。
一部の業者は、「使われる事で退色した自然な味わい」とセールスを打っていますが、大きな誤りです。
どの程度薬品漬けしているかにも拠りますが、薬品に漬かって死んだウールは爪先でひっかいただけで崩壊して抜けてしまい、洗って太陽光で干せば堪えきれずに抜け落ちます。
このような薬品による洗浄は、何も安いオールドだけでなく、アンティークの高価なキリムにも広く行われている現実があり、洗った途端、化学反応を起こしてミフラブの色が黄色から緑に、紫から緑に変わったケースも珍しくはありません。

それだからこそ、キリムの買い付けは、元々の状態で買い求め、仕上がりを確認する必要があるのです。
もっとも、いちいちそのような事をしていたのでは卸屋も仕事になりませんし、買い手も売れれば良いという風潮があるので、なおざりになっています。
このように、市販されているキリムは、何かしら問題を抱えているものが少なからず存在します。
特に安さだけをセールスポイントにしている店、薄汚れたキリムや下手な修理でごまかしをする店の品物はくれぐれも注意して下さい。
このような状況下、キリムの元の状態を把握し、きちんとしたオーダーを掛けたギュネシを行う事が如何に大切な事か、その事実の一端をご理解頂ければ幸いです。

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イランキリムのすすめ

当店では、アナトリアのキリムはもちろん、コーカサスそしてイランのキリムも取り扱っています。
イランキリムの多くは、華美な装飾よりも様式美や実用性を重視し、お部屋に敷いた時に、絨毯のように落ち着いた雰囲気で良く映え、スリットレスのインターロック(かみ合わせ)という織り方によって丈夫にできています。
総じて古いものほど品質が優れ、少なくとも80年以上前のもの、特に100年を越える天然色は極めて発色がよく、染め、織りの技量が特に優れています。
今では、そのような貴重な本当に古いイランキリムは市場からほとんどなくなりつつあり、一介の業者がふいに訪れても見せてはもらえないか、過大な金額を提示されてしまいます。
イランキリムのアンティークを扱うことのできない業者の中には、「イランキリムには、アナトリアほどの骨董的な価値がない」と言われますが、とんでもない誤解です。
イランキリムには、トルコ産キリムに優るとも劣らない素晴らしいものが結構たくさんあります。
宮廷に献上されたかのような、金糸・銀糸で織られた150年を越える特別なキリムや、地元の有力者が代々受け継いできた貴重な文化遺産がイラン各地に秘かに所蔵されています。

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イランキリムへのこだわり

古いイランキリムの修理は、すべてトルコで行います。
なぜなら・・・ イランの民家から買い付けたものはもちろんのこと、例えバザールから仕入れても、修理なしの現物渡しが基本であって、例え、修理可能であったとしても、修理を頼まない方が良いからです。
(ちなみに修理は別料金です。)
今まで多くの古いイランキリムの修理を見てきましたが、残念ながらイランの修理技術は優れているとは言い難いのが現実です。
修理糸にはキツい化学染料の糸、中には、細いウールの代わりに綿糸まで使って修理されたもの、それもかなり色目が違うにもかかわらず、周囲との織り目や色のバランスも考慮しないままやり遂げてしまったものがあります。
そのため、私がお願いしている卸屋さんは、イランでアンティークキリムを仕入れてきて、まず一番に下手な修理を取ることから始めなくてはなりません。
そうして、オリジナルの糸だけにして、クリーニングを済ませてから、やっと修理にかかることができます。
(イランのオールドキリムには色流れが多いので、きちんとしたクリーニングも欠かせません。)
そうして、イスタンブルで修理されたイランキリムは、きちんとストレッチを掛けて経糸の断裂まで確認した後に、万全の状態で出荷が可能になります。
きちんと手入れされていないイランキリムには、変形や歪み、そして赤色のにじみなどが非常に多く見られます。
安かろう、悪かろうでは、私の好むところではありませんので、上質なイランキリムだけを厳選してご提供させていただきます。
滅多にお目にかかれない超アンティークを初めとした品々は、ちょっとした洋書よりも充実した品揃えが自慢です。

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トルクメニスタン産の絨毯について

トルクメニスタン産の真紅の絨毯は、通称ブハラ絨毯の名で広く知られています。
ご存じブハラはウズベキスタンの古都、日本の京都に似た位置づけになります。
都市間を結ぶシルクロードは何本もあり、丁度、その枝分かれした道が交わるブハラはシルクロードの要衝として繁栄していました。
その内の一本は、トルクメニスタン国内から現在のアシハバードを経て、ブハラへと通じていました。
そして、重要な交易品であったトルクメニスタン産の絨毯は、アシハバードからラクダで砂漠を渡り、一大交易都市のブハラで取引され、ブハラ絨毯として有名になった訳です。
そのため、一般に言う真紅のブハラ絨毯は、実はトルクメニスタン絨毯を指します。
また、ブハラも有名な絨毯の産地、ラクダの毛を使い、割と細やかなパイルの絨毯を産出していますが、デザインはトルクメニスタンのブハラ絨毯とは全く違います。
ここではトルクメニスタン産の真紅のブハラ絨毯を、本家トルクメニスタン(絨毯)と呼ぶ事にします。
                          本家トルクメニスタン絨毯ヤストック→
これら本家トルクメニスタン産の絨毯を始め、トルクメニスタンのキリムやジジム、そしてウズベク産のスザニ等は、現地通貨が対ドルレートでとても安かった為、貴重な現金収入を得る手段としてあっという間に海外へと流出しました。
かつては一枚のスザニを売ると一頭の羊を買う事が出来たので、喜んで売り払われました。
しかし時代は流れ、物流の主役は飛行機です。
本家トルクメニスタン絨毯やウズベキスタンのスザニ等は、同じトルコ系民族で一番の友好国であるトルコへと飛行機で運ばれ、世界のマーケットへと流れていくようになりました。
本家トルクメニスタン絨毯は、既にマーケットの主役として不動の地位を確立しています。
バザールを覗けば、真紅の本家トルクメニスタン絨毯が観光客の目を惹き、次から次へと飛ぶように売れていました。
まるで尽きる事がないように豊富に出回り、品質の良さの割に安価に放置されていましたが、2年程前から事情が変わり、急に価格が跳ね上がりました。
当初は、トルコの税関当局が関税率を引き上げたのだろうと噂していましたが、どうもそれだけではない事に気がついたのが割と最近の事。
詳しく訳を聞けば、トルクメニスタンを出国する際に、とても高価な関税を課すようになっていたのです。
1平米辺り、250ドル相当の追加負担が生じているそう。
これはチュアルの様な小物でもしかり。
X線の検査で絨毯が見付かると没収されたり、厳しく課税されるので、密輸は不可能です。
この税金は、トルクメニスタンを出る際に課されていますから、例え隣国のイランで購入しても同じです。
もっとも、イランに出回るトルクメニスタン絨毯のほとんどは、イランで織られたトルクメン風の絨毯、本家トルクメニスタン絨毯は、トルコよりも高い値段が付けられています。
そこで最近目を付けられているのが、アフガニスタン産のトルクメン風の絨毯です。
イランのバルーチ等と同じく本家トルクメニスタンの親戚ですが、それらは本家トルクメニスタン絨毯ではありません。
販売店側が、アフガン産のトルクメン風の絨毯を、「お買い得なトルクメン絨毯」のようにセールスしていますが、実は、割安なアフガン絨毯を高い本家トルクメニスタンになぞらえている上手な商売文句に過ぎません。
前述の通り、本家トルクメニスタン絨毯は、出国する際に高い税金が課せられますから、割安な本家トルクメニスタン絨毯など存在しません。
また、本家トルクメニスタンは、イランやアフガニスタンの絨毯とは物が違います。
残念ながら、アフガン産のトルクメン風の絨毯、イラン産のトルクメン風の絨毯の方が日本ではメジャーなので、本家トルクメニスタン絨毯の事はすっかり忘れられています。
お客様から、「トルクメニスタン絨毯」が欲しいとご要望を受け、本家トルクメニスタン絨毯をご紹介したところイメージと違うらしいので、よくよく聞いてみると、お探しの絨毯はアフガン絨毯だったという事も珍しくありません。
この事例とは別に、最近、本物のトルクメニスタン絨毯のご要望があり、お客様に個別に販売しました。
その品物の良さときたら、見ているだけで嬉しくなるくらい、満足度も格別でした。

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シャルキョイについて (画像にカーソルを載せれば、説明が出ます。)

かねてより質問の多かったシャルキョイに関する私の見解をご紹介します。
まだ未完成のリポートですが、ちまたで見聞きするものよりは信憑性の高い内容になっていると思います。
これらは、今までの経験と個人調査に基づくもので、史実の点で文献を一部参考した他は、独自の論理であり、よくある文献を切り貼りしたコピー解説ではありません。
また、言語学や民俗学などに傾倒した学説は、織り糸や染料といった、本来、最も重要であるファクターへの考察が皆無に等しく、信憑性が低いので採用していません。

さて、まずは「シャルキョイ」“Şarköy”という名前の由来です。
“KOY”は今でも頻繁に使われている言葉、イスタンブルのアジア側にある町「カドキョイ」“KADIKOY”等と同じく「村」又は「町」という意味です。
一方、“ŞAR”は王を意味しペルシャ語が起源の「ハン」に由来するという説が有力。
この「ハン」は、ご存じ大モンゴル帝国で有名なフビライ=ハンの「ハン」、遊牧民の族長が使う称号、後の最高指導者の呼称です。
※ここでは「ハーン」「ハン」「カーン」は区別しません。
つまり、「シャルキョイ」は「王の村」という意味合いであったと推察されます。

シャルキョイの場所について
キリムの呼称に使われるのは、ほとんどが生産地、又は取引された近隣の主要都市の名前の名前です。
この事はキリムに限らず、陶器など伝統工芸品に共通する特徴。
従って、シャルキョイと呼ばれていた村の位置を特定できれば、概ね、生産された地域が判明します。
ブハラ絨毯の様に、国境を跨いで別の都市名が付くのは希です。
一般に言われているシャルキョイの場所は、現在のセルビアのピロットという町です。
しかし、ピロットのオスマン帝国の統治時代の呼び名は、「シェヒルキョイ」“Şehirkoy”。
「シェヒル」とはエスキシェヒルと同じ「街」という意味ですから、直訳したら「街の村」という感じの名前だった事になります。
琴欧洲の古里ヴェリコ・タルノヴォ/Veliko Tarnovoで「ピロット」のキリムを買い付けしている様子。街の骨董屋は密かにキリムを持っていて、顔なじみの人間が来た時にだけ見せてくれます。ブルガリアや南セルビアの田舎町を訪問した事がある方ならピンと来ると思いますが、この地域では小さな家が集まった集落があちらこちらに点在しています。
それらが集まった比較的大きな街が「シェヒルキョイ」だったのでしょう。
この「シェヒルキョイ」が人づてに伝わる内に「シャルキョイ」に呼ばれるようになったのか、それとも別の「シャルキョイ」という別の町がオスマン帝国時代にあったかが探し求める答えになります。
その答えのヒントは、ピロットのネイティブスピーカーの話す独自の言語にあります。
これまで引用する事がなかった言語学によって、「シャルキョイ」の古里を探し出すヒントが見付かるのです。
なお、現在のテキルダーのシャルキョイとは関係がありませんから、これは無視して下さい。

では、ここで、仮にピロットが「シャルキョイ」であったと仮定しましょう。
ここで疑問に思うのは、「シャルキョイ」と呼ばれるキリムがピロット一都市で織られたとは到底考えられない分量があり、デザインのバリエーションに富んでいる事です。
既にお察しの通り、「シャルキョイ」はピロットに限らず、周辺各地で織られていたキリムの総称になります。
かつてセルビアで紛争が起きた頃、シャルキョイが多く流通した事がありました。
しかし、それら民間から流出するキリムが無くなると、一気に消滅してしまい、今では本家セルビアからよりも、ブルガリアから見付かる方が多くなりました。
ともすれば、ブルガリアが「シャルキョイ」の古里であるとの印象を持ちます。
無論、ブルガリアもシャルキョイの主要産地の一つであった事には違いありませんが、キーポイントではありません。
セルビアがオスマン帝国独立した時、シャルキョイ又はシェヒルキョイの古里を離れ、ブルガリアに移住した者が多かったため、ブルガリア各地からシャルキョイが見つかりますが、そのほとんどはブルガリア側で織られたシャルキョイ。
特に、オールドのシャルキョイやピロットのキリムは、ブルガリアからの物が圧倒的に多く、特にピロットと結び付きが深かった北西部の諸都市で多く見付かります。
当時、彼の所蔵していたキリムの一部がこちらです。赤と濃紺が逆転した面白いシャルキョイ。ここで探し求めている「シャルキョイ」とは3mも4mもある大判シャルキョイ、あの真っ赤なシャルキョイが織られた古里です。
なお、ブルガリアにも伝統的なキリムの文化があり、シャルキョイとはかなり違うデザインのキリムを織っていました。
他に、シャルキョイに似たコトレンスキー等の昔から織られていた地元のキリムもありますが、普段、市場に出回っている物の多くは後生のリプロダクト作品です。
しかし、そのキリムを織っていた工房は閉鎖され、今では民家で少量が織られているのみ、機械織りの絨毯の普及に伴い、その新しいキリムを織る伝統すら消滅しつつあります。
話は少し本筋からそれますが、ピロットの人々は自分達を「ピロット人」と呼び、セルビア人やクロアチア人と並べてまるで別の民族のように言います。
ただし、民族学的には同じ南スラブ民族です。
言語も違いますが、ネイティブのピロット語は若い人達にほとんど受け継がれていません。
それでも、子供の頃から家庭の中ではピロット語を両親が使っているので、話している内容は分かります。
そこで物は試しと、若いピロット人(若干名)に、「「シャルキョイ」の名前を知っていますか?」と尋ねても、誰も知る者はありません。
昔のピロットは、「ピルゴス」と呼ばれていて、その昔はトルコだったと言います。
不思議に思い、古い「シャルキョイ」のキリムの画像を見せると、「見た事がある。」と返事が返ってきます。
もっとも、「シャルキョイ」と「ピロット」の区別は付いていません。
地元でキリムのコレクターをしている人も、古いシャルキョイのキリムを「ピロット」と呼び、「ピロット」がナンバー1のキリムだと自慢します。
彼は、「ピロット」のウールの良さ、天然染料の優れた理由等を教えてくれましたが、ほとんどは知っている内容でしかありません。
どうやら、細かな事には余り興味がなさそうで、もっと知りたいなら地元の学芸員を紹介するとの事でしたが、時間の制約もありお断りしました。
最近知り合ったピロット人の奥さんが教えてくれた伝承は、「キリムは片側100年、反対に返して100年、合計200年使える。」というもの。
もちろん、例え話だと思いますが、表裏の無いシャルキョイの伝統が言葉尻に感じられます。
(ブルガリアにもこれと同様の伝承があります。)
ピロットはセルビア国内にありますが、ブルガリア国境に位置し、周囲を山々に囲まれ、独自の文化・風習が長く受け継がれてきました。
セルビアの首都ベオグラードからは遠く、自動車で移動したなら、インフラの整備の悪さもあって丸一日かかります。
ソフィア郊外の風景 初夏の時期にも係わらず高い山並みではまだ雪を被っています。今でもこの美しい自然の中で牛や羊が放牧されています。ブルガリアの首都ソフィアからの方がはるかに近く、高い山を迂回して進むことになりますが、定期バスで2時間もあれば辿り着く事が出来ます。
シャルキョイのキリムが織られていた時代には自動車は普及していませんから、必然的にブルガリア側が最大の交易相手、その事を裏付ける様に、ブルガリア側には同じ言語を話し、同じ文化を持つ人達が住む村があります。
もっとも、「シャルキョイ」と呼ばれていた当時は、どちらもオスマン帝国領内の地方都市です。
また、ピロットは土地柄、戦略的に重要な位置にあったため、度重なる戦争によってその帰属がオスマン帝国とセルビアの間で争われ、その後にはブルガリアとセルビアの間で頻繁に変わっています。
しかし、ピロット人はブルガリアとセルビアいずれにも属していない独自のアイデンティティを持っていました。
今ではピロット人もセルビア語を話しますが、前で触れたように自分たちを「ピロット人」と呼ぶ所からも自らの文化に誇りを持つ人柄が推し量れます。
今でもこの美しい自然の中で牛や羊が放牧されています。

ここで、セルビアの歴史と共にピロットの歴史を振り返ってみましょう。
まず、オスマン帝国に対する度重なる蜂起によって、1817年にセルビア公国が自治を認められるようになります。
しかし、依然として、オスマン帝国の宗主権下にありました。
その後、1877年の露土戦争に参戦し戦勝国となると、1878年には独立が認められ、そして、1882年にセルビア王国が成立する運びとなりました。
ただ、この頃はまだ、オスマン帝国の影響はかなり強く、「シャルキョイ」の生産が脈絡と続いていた事が、現在見付かるシャルキョイから容易に推察出来ます。
しかし、1908年、オーストリア・ハンガリー帝国がボスニアとヘルツェゴヴィナを併合し、オスマン帝国の宗主権下にあったブルガリアが独立を宣言すると状況は大きく変わっていきます。
旧オスマン帝国領内に住んでいたムスリムは、オスマン帝国への帰属を望んでいましたが、1912年~1913年のバルカン戦争でついにオスマン帝国のバルカン半島支配が終わり、オスマン帝国はボスポラス海峡まで後退していきました。
これ以降、「シャルキョイ」生産は急激に衰退していったと考えられ、名実ともに「シャルキョイ」の名は幻の如く消滅していきました。
そのため、本当に「シャルキョイ」と呼ぶ事が出来るキリムはほとんどアンティークに限定されます。
皮肉にもあの美しい「シャルキョイ」が織られたのは、オスマン帝国の支配下で長い平和が訪れた期間にほぼ限定され、その後は荒廃の一途を辿る事になるのです。
かつて盛んに産出されていたイスラム色の濃いミフラブ模様の巨大なキリム工房は、次々と閉鎖されるか規模を縮小し、一部はブルガリアキリムの担い手として細々と受け継がれていく事になります。
現在のピロットでは、年配の方しかキリムの事を知る者はありません。
ただし、家庭で織られていたお祈り用のセッヂャーデについては、相対的に長く継承され、現実に90年程度の「シャルキョイ」を目にする事も多くあります。
一方、オールドのキリムの場合は、諸般の事情によりそれがブルガリアで織られた物であっても「ピロット」と呼ぶのが正しい呼称と言えます。
(ブルガリアの伝統的なキリムを除く。)
ブルガリアでの現地調査の際、案内してくれたギョチメンのブルガリア人も、「シャルキョイ」と「ピロット」を分けて使い、「シャルキョイ」=アンティークという明確な意識を持っていました。
もっとも、「ピロット」は一応セルビアなので、実際にはブルガリア語の呼称がしばしば使われています。
ただ、少し気を付けなくてはならないのは、「ピロット」には含まれない「チプロフ」等のキリムが混在している事。
デザインは似ていますが、非なる物、価格が安いのでしばしば「シャルキョイ」の名を語って売るのに一役買っています。
そうして、破格値の「シャルキョイ」が生み出されている訳です。
今もピロットは美しい山並みが広がり、谷に沿って流れる川は人々の命の源、シャルキョイの流水ボーダーはこれを象徴していると言っても過言ではないほど。
山並みの木々は生命の木に表現され、綺麗な青空を飛び交う鳥が木々に泊まり、その様子をキリムに織り込んだのでしょう。
ボーダー等の模様としてお馴染みの羊は、命を繋ぐ大切な財産として昔から人々の生活を支えてました。
ピロットで好んで使われる箪笥模様も、嫁入り道具の一つとして古道具屋でよく見かけます。
ピロットは、今でも昔ながらの古い家並みが残る小さな町、キリムや絨毯を展示する博物館もありますので、機会があればぜひ訪れてみて下さい。
Zona Zamfirova』 by YouTube.comでピロットの昔の生活風景がユニークな動画でご覧になれます。
(一瞬だけ、ピロットのキリムも見えます。)
ピロットの町の紋章がこちらです。(『WIKIPEDIA The Free Encyclopedia - Emblem of Pirot』より)

ついでですが、マナストゥルについても短く説明します。
ちまたでは一部の間違った説が取り上げられ、その間違い解説を流用するケースが多々あります。
先ず、マナストゥルは「シャルキョイ」ではありません。
マナストゥルの主要生産地は、旧ユーゴスラビア内、現在の某国がその主要生産地でした。
シャルキョイの主要生産地からは結構離れているため、キリムそのものも割とはっきり区別できます。
ただ、明確な国境は無く、デザイン的には似通っている物が多々あり、マナストゥルのキリムに使われているのも、織物に最適と言われる毛足の長い羊の毛、「バルカン・シープ」の毛で織られています。
また、念のため触れておきますが、「シャルキョイ」似のキリムに「マケドニア」産キリムがあります。
シャルキョイと同じ生命の木のデザインで織られ、配色も似通っています。
トルコ語で「マケドン」と呼ばれるこのキリムは、デザインこそ似通っているものの、織りは少し粗くなり、バルカンシープが使われていないので、直ぐに違う物であると分かります。
「シャルキョイ」の様な付加価値は無く、モルドヴァ等と同じ単なるトルコ以外の第三国の安価なキリムです。
しかし、日本ではこれらも「シャルキョイ」として売られています。
既に記した通り、本当の「シャルキョイ」と呼べるものは、100年前後の年代があるブルガリアを含むピロット周辺地域で織られたキリムです。
マナストゥルやブルガリア独自のキリム、マケドニアのキリムは、「シャルキョイ」の分類からは外れ、オールドの場合は、ピロットにも含まれません。
複雑ですが、このような事情をよく知って頂いた上で、満足のいく品物をお求め頂けるよう願うばかりです。

※転載・流用される方は、ご一報下さい。
※参考 『フリー百科事典ウィキペディア日本語版 セルビアの歴史

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シャルキョイについて(近況報告を兼ねて)

最近2年間、頻繁にブルガリア各地を訪問してきました。
その目的は、今や幻のキリムとなりつつある「シャルキョイ」や「マナストゥル」といったこの地域で織られていたキリムに関する情報収集でした。
幸い、20年間シャルキョイ専門の卸屋として働いていた方と知り合いなので、その方にお願いして、ブルガリア各地を転々としてキリムの買い付けをしている人を紹介してもらい、最初のブルガリア訪問を行いました。
無論、将来的にはセルビアにも足を伸ばす予定でしたが、その前にイスタンブルからのアクセスが容易で、人脈を築き挙げる事が出来そうなブルガリアで足場を固めた上で、次のステップに進もうと考えていました。

まず初めに、キリムの文化を考える上で欠かせない、ブルガリア方面とトルコの関係について歴史的な側面から基本情報を整理します。
東欧諸国の一つであり、ヨーグルトくらいしかイメージが沸いてこない小さな国、実際、その通りに過ぎないブルガリアも、かつてはブルガリア帝国として君臨し、バルカン半島南部の大半を国土に納めていた栄光の時代が長く続き、東ローマ帝国に従属することとなった時も、再び独立を果たした最強国の一つ。その後、モンゴル帝国の侵攻には耐えたものの、国力が衰退した時にオスマン帝国の侵攻を受け、およそ500年近いその支配下に入ることになります。
当時のオスマン手国の皇帝、ヨーロッパに於ける領土地域の拡大を目指していたムラト1世は、屈服したブルガリアの皇帝の妹を妃に迎え、手厚く優遇したことからも、当時のブルガリア帝国の欧州に於ける影響力が推察出来ます。
この時、オスマン帝国が獲得していた領土は、ブルガリア帝国の支配地域の他に、北はセルビアのニシュから西は現在のマケドニアのマナストゥルにまたがる広いエリアで、セルビア各地を治めていた諸侯にとって国家存亡の危機をひしひしと感じる状況にありました。
一方、小アジアでは、セルジューク朝がモンゴル帝国の侵攻を受け、弱体化、ついにその支配下に入ります。(1250年頃)
すると、各地で群雄が割拠し、ベイリクと呼ばれる小国が生まれます。
このうち、後のオスマン帝国になるオスマン侯国も、初期のころは、セルジューク朝に仕え、所領をもらい遊牧生活を送っていた小さな部族集団でした。
それが、周辺の部族と戦いながら地道に領土を拡大したのが、オスマン1世の父であるエルトゥールル、そう、エルトゥールル号の名で知られている国の礎を築いた人なのです。
そのオスマン侯国は、東ローマ帝国とマルマラ海を挟んで向かい合う場所にあり、アナトリア側には強大なカラマンを初めとする強大なベイリクが存在していました。
その国力の差は明らかで、東方への領土拡大を計ることは、道義的にも、また、武力の面でも不可能であり、ヨーロッパ側へと進出する他ありませんでした。
そのきっかけを築いたのが、2代皇帝オルハンの時代、東ローマ帝国の帝位継承の争いに乗じて、マルマラ海沿いの領土を獲得し、ここを拠点に支配地域を広げて行くことになります。
次いで、即位したムラト1世の時代、その家庭教師でもあり、バルカン半島の初代司令官を務めるララ・シャヒン・パシャ(将軍)を始めとする将軍の活躍で連戦連勝、トラキア地方を手に入れます。
勢力を拡大するオスマン帝国に危機感を抱いたバルカン諸侯は、ハンガリー、ブルガリア、セルビア、ワラキア、そして、ボスニアが連合軍を構成、大軍勢を揃えますが、偵察に出ていたオスマン帝国軍の奇襲によりあっけなく敗退してしまいました。(マリツァの戦い:1364年)
それでも国家の存亡の危機にあったバルカン半島の諸侯は再び連合軍を結成して、再びマリツァ川での決戦に挑みます。(1371年)
もっとも、これはムラト1世がアナトリアに滞在している間をねらった奇襲であったとも言われ、2万とも、7万とも言われるバルカン連合軍に対し、800人程度のララ・シャヒン・将軍は、夜襲を掛けてこれに応戦し、敵軍を壊滅させました。
※詳しくは「マリツァの戦い」Wikipediaを参照してください。
この勝利と同じ年にオスマン軍は早くも遠征軍を派遣、ついにブルガリア帝国を屈服させ、休戦協定を締結した後、軍隊を派遣してこれを支配下に置きます。
一方、小アジアでは、オスマン帝国が勢力を拡大することに不満を募らせていたカラマン侯国が反乱を起こし、領内に進入してきました。
そこで、和平を締結した東ローマ帝国、ブルガリア・セルビア諸侯の力を借りて、コンヤへその鎮圧に向かうことになるのです。(このカラマン侯国が後のカラマン県の由来)
アナトリアの反乱を鎮圧したオスマン帝国は、再び東欧での領土拡大を進めますが、大軍を擁したオスマン帝国軍は、気のゆるみからか、ボスニアでの戦いに敗れます。
すると、バルカン諸侯は反撃の好機と捉えこぞって集結、ボスニアとセルビアの連合軍とムラト1世率いるオスマン軍は決戦に突入、日本でいうところの「川中島の合戦」に相当するコソボ平原での戦いが起こります。(1389年)
この戦いではセルビア諸侯と、ボスニア王国、ワラキア侯などが奮闘しますが、オスマン帝国軍が優勢に戦いを進め、セルビアの騎士が降伏に見せかけてムラト1世を暗殺するのが精一杯。
一時、セルビア連合軍に攻め込まれますが、直ぐに即位したベャズット/バヤズット1世は、オスマン帝国の皇帝らしく、陣頭指揮を執り、自ら敵軍に攻め入ったと言われ、この戦いに勝利、敗戦国を従属させ、この地域での優位性を圧倒的なものとします。
しかし、チムールの侵攻により、オスマン帝国はアンカラの戦いで敗北し、帝国は一時崩壊しますので、東欧の支配地域の他、各地のベイリクも独立状態になりますが、次第に勢力を回復した新しいオスマン帝国に従属することとなります。
初期の頃こそ、ソフィアに軍隊の司令部を置き、エディルネに皇帝の居を構えるなど、重要性は高かった旧ブルガリア帝国も、帝国内の一地域という位置付けに変わります。
それまで世界の中心的な立場にあったブルガリアは、オスマン帝国の領土が拡大するにつれ、他の支配地域同様、帝国から派遣された司令官の管轄下に置かれるなど、次第に重要性が低くなってゆきました。
異教徒に対して柔軟な政策を取ったとはいえ、トルコ人優位であることに変わりなく、各地の諸侯が何度も反乱を起こしても、ことごとく鎮圧されてしまいました。
それから数百年が経過し、オスマン帝国の衰退が目に見えて明らかになった時ですら、セルビアのニシュで起こった反乱(1809年)やブルガリアの反乱(1876年)に対して、当地を所轄する軍司令部が取った残酷な鎮圧行動からもその圧倒的な優位的立場が推察できます。
今も残るニシュの要塞は、観光名所となり、案内してくれたセルビア人の学生は、「ここは昔トルコだったんだ。100年間くらいかな?」と言うと、その母が「いや、もっと、もっと長い期間ですよ。」とさりげなく話してくれました。
この長い支配の期間、「シャルキョイ」や「マナストゥル」と言ったキリムが盛んに織られたというのも、皮肉な感じがします。

ブルガリアには、現在もトルコ人が多く居住していますが、永遠とも思われる長き支配の間に言語・文化が融合しているにも係わらず、独立から1世紀以上が経過した今、一般のブルガリア人はトルコ語を話しません。
首都のソフィアにはあのシナンが建てたモスクがあり、金曜礼拝では、トルコ系だけでなく、アフリカ系、そして、シリア、イラク方面からも流れてきたアラブ人たちで溢れ、道路も通れなくなるほど。

夕日の中、シナンが建設したモスクムスリムの中には、マナストゥルの大判キリムを屋外に敷いて、お祈りをするグループもあります。
そして、それをブルガリアの警察が大人数で取り囲んでいます。
この光景を見たなら、この国の長い苦難の歴史の一端が読み取れます。
もっとも、首都から離れ、トルコ系住人の多く住むシューメンでは状況が一変します。
街のど真ん中、一番良い場所にモスクが立ち、町中のレストラン、ホテルでも割とトルコ語が通じます。
イスタンブルからシューメンまでの長い車の旅の後、無理矢理連れて行かれた巨大なバーでドリンクを運ぶ若い女性たちは、見た目ブルガリア人のブロンドですが、完璧なトルコ語で応対してくれます。
周りが皆トルコ語を話すので、英語を使うことがはばかられるくらい、異国に来た感覚は全く無く、まるでトルコの一都市に来たようです。

この様に、ブルガリアではトルコ系住民とブルガリア人が微妙な関係で同居しています。
しかし、都市部から離れた田舎町くらいしかキリムを織る文化は残っておらず、その担い手は高齢の女性たちが中心で、もはや昔ながらのキリムを使う邸宅はほぼ皆無、民家では何処も機械織りの絨毯が使われています。
Wikipediaによると、2010年のブルガリアのGDPは青森県と同じくらい、極めて小さな経済規模であり、人々は貧しいながらも、充実した生活を送っているように見えます。
分かりやすい指標として、3つ星クラスのホテルの料金。
イスタンブルの観光地のど真ん中で値切り倒したホテルの一泊の料金が繁忙期で50ユーロ、ソフィアの中心部の同等クラスか少し良いホテルが、僅かな価格交渉だけで、あっさり30ユーロになり、セルビアの田舎町では値切り交渉無しで25ユーロです。

この物価の安い国にある「シャルキョイ」や「マナストゥル」が、現在、最も高価な価格で取引されるキリムになっているのです。
上手くすれば、現地のローカル価格で入手することだって可能かもしれません。
無論、私が考えることは、他の業者も考えていますので、普通の手段では叶いません。
その為には、「コネ」を利用する他ありません。
しかし、実際にブルガリアに行ってみると、オールドのキリムを販売する店は無く、(最初に行ったときは、一軒ありましたが、翌年には閉店していました。)各地に点在する骨董屋が密かに収集している程度です。
同行してくれたトルコ系ブルガリア人は、自動車でブルガリア各地を周遊して、一件ずつ骨董屋を回ってキリムを探し、ある程度集まった段階で、イスタンブルに売りに行き、生計を立てています。
こういった国境をまたいだビジネスを見聞きし、現地でキリムを仕入れる事の難しさを痛感しました。
この状況把握におよそ1年間を費やし、次の1年間はブルガリアで唯一、古いキリムを収集している人物、そう、彼こそが、シャルキョイ専門の卸屋さんと20年来の付き合いのある方と、ついに巡り会うことができました。
順次、その時、彼から買い付けたキリムも入荷してきますが、期待したほどには良い物はありません。
なぜなら、既に「シャルキョイ」や「マナストゥル」は田舎にはほとんど残ってはおらず、仮に見つけても、その価格はイスタンブルで買うのとさほど変わらないばかりか、ユーロ高のせいで微妙に高め、私の旅行費などの手間賃を入れたら、どんなに頑張っても採算が取れません。
更に、ブルガリア・セルビア辺りでは、家の中で靴を履いて生活するせいで、オールドのキリムはどれも汚れたものばかり、万が一のチャンスに掛けて、買い付けてみたものの、何度洗いに出しても、シミは抜けませんでした。もし、これらの内の一枚、古いキリムにシミが無ければ、たった一枚でこの原価全てを回収、ホテル、食事代、交通費を支払っても利益が残るほどでしたが、無念です。
この時は、シャルキョイ専門の卸屋さんとの訪問であり、彼の口利きを依頼した都合上、私が彼の旅行費、食事代等すべてを面倒見る約束で実現した訪問ですから、収穫が無いどころか、かなりの大損。
ただ、そのブルガリアの友人は、私たちがイスタンブルへ戻る際、見送りのために朝早くから小雨の降る中、一人でバスステーションの外で待っていてくれ、私に名刺を差し出し、「電話してくれたら、いつでも迎えに行く」と嬉しい言葉を掛けてくれました。
この旅での損失は、この千載一遇の機会へ支払ったものとして、気持ちの中で欠損処理ができました。

そして、次の訪問では、秋のシーズンに、一人で訪問してみました。
事前に、エディルネに住む友人に頼んで、私が行くことを伝えると、ブルガリアの友人は甥御さんを通じて私の下へメールが届き、待っていてくれるとのこと。
嬉しいではありませんか。
併せて、前回、バスターミナルでピロット行きのバスの日程表を確認していましたので、地の利を得てあります。
今回は、ソフィアに次ぎ、シャルキョイの古里、ピロットにも行く計画を立てました。
併せて、ニシュに住むシャルキョイのコレクターから10年ぶりにメールが届き、ニシュで再会することにしました。
しかし、これらは全て頭の中で立てた計画でしかありません。
実行できるかどうか、かなり疑問でしたが、滞在予定のホテルからは、予約の再確認を迫るメールが届き、少し尻込みしていました。
日本と違い、行ったときが勝負ですから、何が起こるか推察すらできません。
そうして、イスタンブル着いて三日目、いよいよブルガリア、セルビアへと旅立つ朝が来ました。
緊張のせいか、早く目覚めてから中々眠れず、仕方なく起きることにしました。
ぐずぐずと身支度をし、軽く食事を済ませると、電車を乗り継いで巨大なバスのターミナルに無事同着して、指定席に座りました。
と、ここまでは完璧。
ただ、出発時間を過ぎても、バスは出ません。
バスの運転手とガイドさんは前回と同じ顔ぶれなので少し安心。
定刻より20分遅れでようやく出発して窓から外の景色を見ると、反対車線の道路が事故か何かで封鎖、バスの乗客はバスを降りて歩いたり、ヒッチハイク、自家用車の人は、移動を諦めて路肩で寝たり、食事したりしています。
この光景を見て、無事にたどり着けるか、とても不安になりましたが、バスは順調に進み、ハスコヴァ、プロディフを通過し、ソフィアへと入りました。
もはや見慣れた町並みの景色により、今、自分がどの辺りにいるのか、かなり正確に把握できます。
そのため、予定より30分程度の遅れであることも分かり、現地に着いたら忙しくなると覚悟。
それでも、自分が止まるホテルが見えたときは、安堵感がわっと出てきました。
ソフィアの町は、タクシーや建物などの町並みに優しい黄色が多く使われていて、すごく心和む雰囲気。
太陽が沈みかけた頃、バス停に付くと、リュック一つ担いでバスを降り、「もしや」と思い辺りをキョロキョロすると、例の彼と弟分が二人で待っていてくれました。
出発時間しか伝えていませんし、電話もできない状況ですから、恐らくは1時間近く彼らはバス停で待っていたのではないかと思うと、感激します。
早速、二人の力を借りて帰りのバスのチケット、そして、翌日のピロット行きのバスチケットを購入し、彼の車に乗って自宅へと案内されました。
そこでは、若い姪子さんが通訳を引き受けてくれ、何不自由なく、会話できました。
彼は、私がホテルを予約していると知らなかったらしく、「ここへ止まりなさい、ホテルなんか要らない。」と言ってくれました。
しばらく雑談の後、私たちはレストランに行き、ブルガリアの伝統料理を堪能、最高にうまい黒ビールとお肉の相性に感激し、長旅で胃腸が弱っていたにも係わらず、大瓶ビールを2本飲み干しました。
この日も夜遅くなって、ホテルでやっと一息つくことが出来ました。
翌日の午前中に、彼の集めたキリムの商談を行い、午後は市内観光、そして、夕刻はピロットへと旅立ち、ピロットでは、岡山に在住しているピロット人の手引きのお陰で、さまざまな人たちと巡り会う事が出来、ニシュでは、時間とお金を失っただけという感じでしたが、これも勉強です。
ここで買い集めたキリムが入荷してくるのは恐らく2年以上先の話になりますので、また、別の機会を見つけてこれらについて記事にするか、将来の為に「ネタ」として残しておきたいと思います。

ブルガリア国立博物館内の民族衣装提示スペースの一角また、これら私が直接仕入れたキリムに先立ち、ブルガリアのキリム収集家が集めていたオールドキリムの掲載を先に行います。
これについても、話題が豊富です。
この収集家は、なぜか、密輸の疑いを掛けられ、ブルガリアの警察当局にその時持っていたキリムを相当数没収されていました。
彼は、5年間当局と裁判で戦い、やっとのことでキリムを取り返したものの、大切な何枚かは紛失していたというのです。
彼にとっては、大きな災難でしかなく、5年間という月日はさぞ辛い日々であったと思われます。
しかし、このことは私にとっては幸いしました。
かつて豊富に入荷していたブルガリアのキリムはその5年の内に、さっぱり出回らなくなり、シャルキョイ専門の卸屋さんは廃業したほど。
しかも、彼は豊富にあった時代に買い付けていたので、お値段も控えめ、まるで、タイムカプセルに閉じこめられていたかのようです。
オマケに、普通の業者と違い、ほぼ無傷の物ばかりを集めていた収集家です。
私がブルガリアで買い付けるより安く、良い物があるのですから、信じられません。
私が数年前にシャルキョイの卸屋さんを通じてキリムを買い付けていた時ですら、ブルガリアのキリムはシミだらけ、シャルキョイの卸屋さんが、「ブルガル、ピロット PEOPLE SHOES AT HOME」と何度も言っていたのを覚えています。  

いずれにしても、この2年間の努力により、ブルガリアとピロット双方で、唯一とも言える古いキリムを扱う業者から直接買い取るルートを独自で築き上げることが出来ましたので、今後の進展を私同様、楽しみにしてください。
シャルキョイと呼ぶことの出来るアンティークは、ピロットの町ですらほぼ消滅していますが、ごく少量が出回ることがあります。
ピロットの彼はイスタンブルの業者に売るしか他に方法がありませんでしたが、いつも安く買いたたかれると、不満を持っていたようで、私の販売しているシャルキョイを見ては、「いくらで買ったのか?」と一つずつ尋ねてきました。
案の定、彼の売値は、イスタンブルと比べ半額以下。
(品物により異なり、時として、同等の事もあります。)
私はイスタンブルの業者より少し高い価格で買い取る事が出来るので、彼らは優先的に私にキリムを供給してくれます。
しかし、そういう恵まれた状況下であっても上手く事が運ばないのがこの業界の難しさ。
今も、シミの抜けないキリムに悩まされています。
それでも、機会のある限り、これら各国を巡り人脈を広げ、更に強固な関係を築き上げていく所存です。
無論、私の他にこの両国で直接仕入れが出来る人間は他にありません。

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