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fc153 シャルキョイ・キリム |
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本家本元のシャルキョイ。 まず、その歴史について手短に?振り返ります。 ヨーロッパの中でも特に寒い地域、ロシアや東欧・北欧等では古くから手工芸品の生産が盛んで、民族刺繍、民族衣類、木彫品から陶器に至るまで非常に多岐に渡り、旧ユーゴスラヴィアやその周辺諸国には織物を織る文化は古くからありました。 さてこのシャルキョイ、初めてご覧になるという方もいらっしゃると思いますし、詳しい方は何処かで見た事があると思われる筈です。 実はこれと同じデザイン、これよりも数年古い年代が織り込まれたキリムが、ピロットのキリム博物館、女性の部屋に壁掛けとして展示されており、これは当時のシャルキョイを代表するキリムの1つでした。 シャルキョイには122種類のモチーフ、96通りのパターンがあると言われ、その全てにセルビア語の呼称が与えられています。 このキリムの場合、セルビアではルツィアの名で呼ばれます。 しかし、面白い事に、このキリムのモチーフはコーカサス地方に由来します。 以前、シャルキョイの伝来を、ブルガリア各地を手掛かりとして、ピロット、そして、ニシュに至るルートで調べていた時に、カーズマンのキリムに何度か遭遇しました。 一度や二度までなら偶然で片付ける事が出来ますが、カーズマンのデザインで織られたシャルキョイまでもが見つかり、更には、ウクライナのキリムもセルビアから出てくる事から、どうやらキリムだけでなく、その担い手までもがカルス地方からウクライナを通過して遥々渡ってきたと分りました。 その際、同じオスマン帝国領のコーカサス地方からこのデザインがもたらされたと考えられます。 ロシア帝国が南下政策によりの黒海北部を侵略した17世紀は、偶然にも、シャルキョイのキリムが確立されたと言われる時代と同じです。 その後、カルスがロシアに占領されたのが1877年。 この後も、カルス地方からブルガリア、セルビアに渡る人は後を絶たなかった事がこの地で見つかるキリムから分ります。 デザイン上の特徴は既に触れた通り、長い年月を掛けてシャルキョイの文化に溶け込んだ伝統的な花柄模様。 幾つかのシャルキョイの中でこちらを最初にご紹介する事にしたのは、織り込まれた年号とサインは紛れもない事実であり、見本として最適な為。 これを基本にする事で、他のシャルキョイの年代の把握も容易となるからです。 なお、年号は何かしら記念・お祝い事を意味するものであり、女性専用のこのキリムでは女児の出産の祝い等がその例。 こうして人の名前を入れるものは、正にその典型です。 色合いでは、黒い程の濃紺色、年代のバロメーターとも言える緑色をご覧になれば、その年代が示す通りのものであると理解頂けると思います。 また、この年代にも拘わらず花弁のピンク等の明るい色彩が見て取れ、化学染料か天然染料かの話は別にして、古いシャルキョイにもこの色彩が見られるという証拠がここにあります。 また、シルクの様にツヤツヤしているこの赤紫色はコットンです。 修理人が見つけて「取り除くか?」と聞いてきましたが、オリジナルなので残しています。 同様に、薄いピンクの花弁の修理についても、そこら辺りのオールドのキリムとは訳が違うので、入れ替えた方が気持ちの面でも楽なのですが、オリジナルを出来る限り留めてあります。 キリム本体と違い、重要性は低いと思われがちな房も貴重なものであり、オリジナルの姿を残しました。 元々が壁飾りのキリムですから、これらブロック状の模様で織られたシャルキョイは、一定の距離で見た時に見栄えするように出来ていて、離れ過ぎたり近付き過ぎてもパッとしません。 その分、ツボに嵌った時の見応えは素晴らしく、壁飾りキリムとしての面目躍如といった所。 一度壁に掛けると、古き良き時代のシャルキョイの情景を映し出し、心和む一時を味わって頂けます。 |
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